『恥』を捨てる事と愚痴を吐く場所とその後の役立て方について

愚痴は大事だ。
 
ただの愚痴も、ブログにすると誰かが読んでそれが役に立ったりするから不思議だ。
 
もちろん、最大限社会に役立てるようにまとめることが出来れば最高なのだが、個人的な事をつらつらと書く目的の当ブログではあまりそういう方向にはしないようにしようと思う。
 
問題解決能力の高い人は愚痴から解決策を見出したりするし、これはあまり無いけど建設的な批判をいただいたり、また逆に単純な炎上をすることもある。
 
個人的に外に吐き出さないと気が済まないよつな事を、100人のうち1人くらいの役に立つように書いているとそのうち仲間が出来たりするのがネットやSNSの面白さだなーと昔から思っている。
 
特定の個人を傷つけなければ、愚痴は自分や他人を改善できるというわけだ。
 
アウトプット先はブログでなくても、YouTubeでもなんでも良くて、「これがこう辛い!」とか、「これは頭に来た」ってな問題は我慢せずどんどん出すべき。
 
私はブログに書いているとおり、最近妻への愚痴が止まらないわけだが、書いてみて解決することが案外多かったりする。
 
「相手に意思を的確に伝えられなかったなあ」とか、「ちょっと言い過ぎたか?」という反省も客観的に読むことでわかったりする。
 
毎日家にいて、ほとんど寝ているかテレビやネットを見ている妻に対して何も思わない人の方が少ないと思う。
 
そういった状況に対して、私が効率良く生産的なシステムを作り、そちらに妻を向けられればいいのだが、そう簡単にはいかないのが現実。
 
私も10代〜20代は基本的にダメな人で、ひたすらニコニコ動画を眺めるだけのネット廃人のような時代もあった。ゴミが家に溜まって片付けられなかったり、うつ病の薬を大量服用したことだってある。
 
そこからどうにかして「恥」の概念を捨てられたのが私と妻との大きな違いだ。
 
「恥」を捨てるのは本当に難しい。私も最初は自分が何で困っているのか理解できなかった。毎日、なぜ自分は困っているのだろう??そう自問自答していた。それが次第に「恥」であることがわかり、わかった瞬間に一気に世界が開けたことを昨日の事のように覚えている。
 
「恥」を大っぴらにすると、周囲の誰かしらが助けてくれることが多い。
 
公的なシステムである生活保護にしろ、恥を捨てさえすれば生きることは容易い。恥を捨てたホームレスの方が案外幸せそうだったりするのだ。
 
しかし、ダメな人ほど恥を捨てられないというのが現実で、社会の問題だと思う。
 
私は別に、世の中の全員に恥を捨てよと言っているわけではない。
 
私のようなダメな人間ならばどんどん恥を晒して、たまに笑われたりもしながら誰かに助けてもらって生きる方法もあるんだよと声を大にしていいたいのだ。
 
最近では、私の知り合いのシェアハウスで、「洗濯機が壊れてしまいました!誰か助けて下さい!」とTwitterでつぶやき、また別のシェアハウスで募金を募り助けてもらう、といったような互助的な関係がも増えていて、これは実に素晴らしいと思う。
 
こういったように世の中ではすでにシェアリングエコノミーの精神が根付きつつあり、持っている人が持たない人をちょっとずつゆるく助けるといった思想が当たり前になっている。私も結婚前はシェアハウス住みの生活でその恩恵に預かってきた。
 
考えが古いままだとどうしても恥を持ったままガチガチになってしまいがちだ。
 
何か考えがまとまらなくなってきた。
 
つまり、愚痴はしっかりどこかで言いつつ恥を捨てよう。ということ。
 
きっと楽に生きることができるはずだ。